この記事はある中国人哲学者の友人の独自研究に基づいて、私がまとめたものだ。主流の捉え方ではないが、こっちのほうが事実じゃないかと思えた。
小学生でも分かるように書いたので、さらっと読めばちょっとわかった気にはなるだろう。ちょっと友達や同僚との会話でドヤれるかもしれない。
Table of Contents 目次
孔子:
周王朝のルネサンスを夢見るが玉砕したロマンチスト。でも彼が築いた道徳観念は今も広く深遠な影響力を持っている。
- 【起】まず前提として、孔子は哲学者というより、社会活動家であり、彼の政治的理想のために奮闘したのだ。孔子は特に道徳観を強調した。彼の思想は「政治的な道徳的な礼楽」の一言でまとめられる。
- 【承】彼が主に何をしたかったというと、古代周王朝の社会制度に惚れ、それを取り戻すことを夢見たが大失敗。周王朝の何に惚れたかというと、階級制度を前提とする礼儀作法(礼)と音楽による人間本来あるべき道徳感の養成(楽)という、社会制度の二本柱(礼楽制度)なのだ。
- 【転】でも現実からかけ離れた理想主義なので、当時の王様たちには受け入れられなかった。また、人それぞれ自分の分をわきまえる「明分」という思想もあった。分とは、カーストのように変えられない社会地位に基づく自分の分(やるべきこと)なのだ。
- 【結】当時の孔子の理想に修正の余地があったと言える。
荀子:
儒家と法家のハイブリッドで、バランスの取れた思想の持ち主だ。
- 【起】孔子の思想を受け継ぎ、法治の思想を融合させ、進化させた。
- 【承】法治とは法律に基づく賞罰の徹底だ。彼は礼楽制度に厳しさを持たせた。何が違うかというと:
- 孔子の周王朝の「礼楽制度」の復活に対して、時代に合った新しい制度の確立を目指した。
- 孔子の「明分」に対して、個人は努力によって社会地位を変えられるものだという「変分」を主張した。つまり、教育を受けて成功を手にするアメリカンドリームならぬ、チャイナドリームの原型がここにあるとも言えよう。荀子=性悪説だと言われるが、彼が本当に言いたかったのは、キリスト教の原罪にも似た「人が生まれながらにして悪だ」ということではなく、人が善になれるということだ。自己啓発しようぜということだ。
- 国家統治においては「礼楽」と「法治」の重要度は同じ、でも国民教育においては礼儀作法(礼)が一番重要だと考えた。
- 【転】法治を提唱したことは諸刃の剣となって、のちに、韓非子や李斯の法治一辺倒の思想を生むことになった。でも荀子のせいとは言えないけどね。
- 【結】荀子はバランスの取れた思想家と思えた。
韓非子:
荀子の弟子だが、人は利害だけで動く生き物と考え、刑法によってのみ規制できると主張する。トランプが好きそうなタイプだなあ。
- 孔子や荀子と何が違うかというと、
- 「性悪説」が根底にある。実は、本当の「性悪説」を唱えたのは荀子ではなくこの人だ。人は生まれながら悪いんだという「原罪」に似た概念だ。人はみな根黒だ、悪いやつだ、だから、法律で厳しく縛っておかないと、やっかいなことになる。
- なんで人が悪いかって?子どもを育てるのは大変なのに、子どもが育つと親を憎むじゃないか。肉親でさえこうなんだから、人間って基本的に自己中なんだよ。と考えたのだ。
- 「礼楽制度」を全否定。わかりやすく言うと、礼儀を守っていい雰囲気を作ろうとか、素敵な音楽を聞いて性格のいい人になろうとか、そんなのまったっく意味のないものだ。
- 人間の心は悪くて改善しようがないので、儒家が提唱する良いことをして、道徳的になることもただの偽善だ。だって心が悪いままじゃないか。だから儒家の思想はただの空論で、礼楽なんって無意味。それどころか、偽善者を量産し、社会を乱すだけだ。
- 礼儀作法って表面的な飾りなので、飾りを必要とするというのは元のものが悪いから、粉飾する必要がある。礼儀作法を重視すればするほど、人間の本質が悪いものであると証明することになってしまう。
- 「性悪説」が根底にある。実は、本当の「性悪説」を唱えたのは荀子ではなくこの人だ。人は生まれながら悪いんだという「原罪」に似た概念だ。人はみな根黒だ、悪いやつだ、だから、法律で厳しく縛っておかないと、やっかいなことになる。
韓非子はある意味、荀子よりも正しいことを言っている。荀子の言う通り、人は確かに教育によって改善される現象は観察されるが、韓非子の言う通り、人は確かに完璧ではなく、どこか闇があるので、悪とも言える。
荀子が積極面のアプローチで、人を教育で改善し悪の行いを減らすと考えたが、韓非子は消極面のアプローチで、教育を諦めて法律で悪の行いを規制した。
聖書から荀子と韓非子の対立の謎が解ける
しかし、聖書から見ると謎が完全に解かれる。
創世記で、アダムとエバが神の言葉を疑ったがゆえに、罪の性質が内側に入り、罪人になった。韓非子の言う通り、本質は悪だ。しかし人には善を求める心もある、自己改善したい欲望もある、それは荀子が言う礼楽による改善だ。現代をみても、処世術を手に入れても、本質の悪は変わらないので、哲学や神学レベルでいうと、その改善は無駄である。神が求める完全さにはすこしも近づいていない。
ローマ書でパウロは、善を欲せば欲するほど、自分が悪であることを証明すると主張した。韓非子と同じことを言っている。荀子と韓非子の思想どれも真理に限りなく近づいたが、二人とも真理の玄関の外で徘徊していたと言える。
社会においては教育による道徳の向上は無駄ではない。社会秩序を改善している事実がある。ただし、聖書の観点から言えば、人は自己を改善することによって神に義とされない。なぜなら神の基準は完全な正しさだからだ。人が生きている限り、罪の性質を保持したままであるゆえ、それに達することができない。
神による救いは2つの面がある。
1)法理的な面。キリストが自分の罪の代わりに十字架で代わりに受刑してくださったがゆえに、自分の罪は神によってゆるされている。死刑囚が法律上無罪放免となったわけだ。
2)有機的な面。死刑囚は無罪放免とされたも、性質が変わらないので、悪いことはまだやってしまう。そこで罪を侵さない・犯すことができないキリストに自分の中で生きていただくことで、実際の面において、罪から遠ざかる事ができる。
詳しくは新約聖書のローマ書を読むとはっきりするでしょう。しかし難解な書なので、解説書を手がかりにして読むと良いでしょう。いずれそれについて小学生でも分かるように解説したい。
以上。